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備中松山城を作ってみた2!

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備中松山城の縄張りの特徴  備中松山城の縄張り(城郭の設計)の主な特徴は、日本で唯一の現存天守を持つ山城で、標高約430mの臥牛山(がぎゅうざん)の小松山山頂付近に築かれた、現存天守12城の中で最も高所に位置する山城である点が最大の特徴です。 自然の地形を巧みに利用した縄張り 臥牛山の四つの峰を利用: 臥牛山の「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰の尾根筋全体にわたって曲輪(くるわ)が広がる広大な城域を持ちます。 天然の巨岩と石垣の融合: 天然の岩盤や巨岩をそのまま石垣の一部として取り込んだり、石垣の基盤として利用したりしており、自然の要害を最大限に活かしています。特に大手門跡後方の巨岩と、その上の厩曲輪(うまやくるわ)の石垣は迫力があります。 連郭式の山城  本丸を中心に、二の丸、三の丸、厩曲輪などが尾根筋に沿って連なる連郭式の縄張りで、山城らしい縦深的な防御構造を持っています。  近世城郭の主要部(本丸、二重櫓、天守など)は小松山に集約されています。  登城の難しさ(天然の要塞):急峻な山道が特徴で、登城路が敵の侵入を困難にするよう設計されており、天然の要塞としての側面が色濃く残っています。 麓の御根小屋(おねごや)との連携  山頂の本丸と、山麓に設けられた藩主の居館・政庁である「御根小屋」(現在の岡山県立高梁高等学校付近)の二元的な構成を持っています。  両者は「中太鼓櫓跡」や「下太鼓の丸跡」などの太鼓の音による通信拠点を使って連絡を取り合っていました。 石垣: 野面積(のづらづみ)など、様々な時代の石の積み方を見ることができます。高い石垣が特徴的で、特に本丸を構成する石垣は一部で高さ17mに及びます。 水場: 城内には石垣で囲まれた珍しい大池(血の池とも呼ばれた)があり、山城としては貴重な水源として機能しました。  これらの特徴は、備中松山城が中世山城から近世城郭へと発展する過程で、その地形を最大限に生かし、防御性を高めるために工夫された結果と言えます。

備中松山城を作ってみた1!

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 備中松山城は唯一の山城の現存天守:で、標高約430mという、現存12天守の中で最も高い場所に建っています。  また、備中松山城の天守閣の外見上の特徴としては次のとおりです。 1. 構造と規模 二重二階(にじゅうにかい): 実際の構造は2階建てですが、下から見上げると屋根が三層に見えるようにデザインされています。 複合式天守: 天守の西側に**付櫓(つけやぐら)**が付属する複合式の構造です。 最小の天守: 建物自体の高さは約11mと、現存天守の中では最も小規模です。しかし、巨大な岩盤の上に築かれた石垣(天守台)の上に建っているため、実際に見ると非常に威圧感があります。 2. 壁と窓 壁の配色: 白い漆喰塗りの壁と、建物の下部を覆う黒い腰板張りのコントラストが特徴的で、力強い印象を与えます。 連子窓(れんじまど)の多用: 正方形の角材を縦方向に並べた縦格子の連子窓が多用されています。 連子窓は、外からは城内が見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができるように工夫されています(別名:武者窓)。 出窓の意匠: 1階正面(南面)には、格式の高い**唐破風(からはふ)**を付けた出窓が設けられています。 2階正面には、折れ曲がった形の出窓があり、外観に変化を与えています。 3. 屋根と破風 天守の屋根には、様々な種類の破風が巧みに配置され、小さいながらも風格ある姿を作り出しています。 破風の配置: 1重目(1階屋根)には、 西面に千鳥破風(ちどりはふ) 北面・東面に入母屋破風(いりもやはふ) 南面(正面)に向唐破風(むこうからはふ) が付けられています。 特に、正面の唐破風は、柔らかな曲線が特徴的で、天守の顔として格式を高める役割を果たしています。 4.籠城に備えた珍しい設備 囲炉裏: 天守の1階に、現存天守では唯一、囲炉裏が設けられています。これは籠城時の食事の準備や暖房に使われたと考えられています。 装束の間(しょうぞくのま): 籠城時に城主一家の居室となる部屋があり、床下に石を入れて忍者の侵入を防ぐ工夫がされています。 神々を祀る御社壇(ごしゃだん): 天守の2階には、城の守護神を祀る御社壇が残されています。

信濃国 荒砥城を作ってみた!

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川中島古戦場史跡公園へ行ってきた!

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川中島の戦いは、戦国時代の天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、信濃国北部(現在の長野市南郊)の川中島で行った一連の戦いの総称です。特に有名なのは、永禄4年(1561年)に行われた第四次合戦「八幡原の戦い」で、この戦いでは両軍合わせて8千人以上の死者が出たとも言われる激戦となりました。 この戦いは5回にわたって行われましたが、明確な勝敗がつかず、両者とも自軍の勝利を主張しています。武田信玄は川中島一帯を獲得したことで信濃への領土拡大の目的を達成した一方、上杉謙信は武田軍を北信濃から追い出すという目的を達した、と解釈されることが多いです。 戦いにおける地理的な意義 川中島という地が戦いの舞台となったことには、以下のような地理的な意義があります。 信濃の要衝としての価値: 川中島(現在の長野盆地)は、千曲川と犀川に挟まれた肥沃な平野であり、古くから信仰を集める善光寺があるなど、経済的にも重要な地域でした。この地を支配することは、信濃国全体を掌握する上で極めて重要でした。 日本海へのアクセス: 武田信玄が信濃国を制圧しようとした背景には、日本海へのアクセスを得て、海運貿易による利益を獲得するという目的がありました。日本海側の海上交通は当時、太平洋側に比べて波が穏やかで、交易ルートとして非常に重宝されていました。直江津(現在の新潟県上越市)のような港を押さえることで、莫大な富を得ることができました。川中島は、甲斐から日本海へ向かうための重要な通過点でした。 緩衝地帯としての重要性: 戦国大名にとって、自国の本拠地が敵国と隣接することは国防上のリスクを高めます。そのため、隣国を自国の領地にするか、あるいは緩衝地帯を持つことが望まれました。信濃国は甲斐と越後の間に位置しており、川中島は両者の勢力がぶつかる最前線であり、どちらにとっても戦略的に重要な緩衝地帯となる可能性を秘めていました。 兵站・交通の要所: 川中島は、武田軍にとっては甲斐からの長距離移動の中継地点となり、上杉軍にとっては越後からの侵攻ルートの終点となりました。特に武田信玄は、甲府と川中島を結ぶ軍用道路(信玄の棒道)を整備し、兵站の確保や兵員の迅速な集結を図っていました。 このように、川中島は軍事的・経済的に非常...

信濃国 荒砥城に行ってみた!

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荒砥城 概要 荒砥城は、千曲市に位置する中世の山城です。標高590mの山の尾根に築かれ、千曲川からは比高220mの場所にあります。信濃の豪族である村上氏の一族、山田氏の居城であったと伝えられています。 荒砥城は、千曲川を挟んで対岸にある村上義清の本拠地であった葛尾城の支城の一つであり、川沿いの両岸の山稜に数多く築かれた支城・出城の一つとして機能していました。その立地から、千曲川や戸倉上山田温泉街、松代、坂城・上田方面など、広範囲を見渡せる眺望の良さが特徴で、戦国時代には戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられました。 縄張り上の特徴  荒砥城は、戦国時代の山城の特徴をよく残しています。主な特徴としては以下の点が挙げられます。 自然地形の活用: 複雑な自然の地形を巧みに利用し、堅固な城塞として築かれています。 土塁と堀切: 土を盛った防御壁である土塁や、尾根を遮断する堀切といった遺構が確認できます。 石積み: 信濃地方特有の平べったい石を積み上げた石積みが見られます。 郭配置: 本郭、二の郭といった複数の郭が配置されており、それぞれが連携して防御機能を果たしています。二の郭へ続く道は桝形になっており、非常に狭い空間で敵の侵入を防ぐ工夫が見られます。 眺望: 標高の高い位置にあるため、周囲の状況を広範囲に把握できる優れた眺望を有しています。 復元の概要 荒砥城は、戦国時代の山城としては全国的にも数少ない、建物が推定復元されている史跡です。現存する建物が少ない中世山城において、当時の姿を再現しようと試みがなされています。 推定復元されている建物としては、主に以下のものがあります。 城門(櫓門・冠木門): 門の上に兵士が立てる櫓門や、簡易的な仕切りとして用いられた冠木門が復元されています。 井楼櫓(せいろうやぐら): 二の郭に建つ見張り櫓で、材木を井桁に組んで造られています。 兵舎: 兵士たちの休憩所や詰める場所として、掘立柱建物が推定復元されています。 これらの復元は、発掘調査や文献資料などに基づき、当時の城郭建築の様子を再現しようとするものです。これにより、来訪者は戦国時代の山城の様子をより具体的に体験できるようになっています。

信濃国にある松代城に行ってきた!

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 長野県長野市にある松代城(まつしろじょう)は、かつて信濃国の政治・軍事の中心地として重要な役割を果たした城です。元々は武田信玄が築いた「海津城」であり、山本勘助の縄張りと伝えられています。その後、真田氏が入城して「松代城」と改称されました。 城の特徴  松代城は、北側を千曲川に面し、東と南には広大な堀を持つ、非常に守りの堅い平城です。 水堀の規模   最も特徴的なのは、その水堀の規模です。幅数十メートルにも及ぶ水堀が内堀と外堀の二重構えで配されており、千曲川に面していたことで豊富な水量を確保していました。これは守りの面で絶大な効果を発揮しました。外堀は内堀の倍以上の規模とされています。 石垣   海津城時代は土造りの城郭でしたが、森忠政の大改修によって石垣を多用する造りへと発展しました。地元で採掘された柴石(しばいし)や皆神山の石を使い、自然の形のまま積む野面積みで築かれています。特に二の丸の石垣は堅牢さを誇っていました。 多重の曲輪   本丸、二の丸、三の丸、花の丸などが階層的に配置され、それぞれが水堀によって区分されています。 縄張りの特徴  松代城の縄張りは、武田信玄が築いた海津城の縄張りを引き継いでいるとされ、甲州流築城術の特徴を強く持っています。 本丸の狭さ  本丸は約80m四方ほどの広さで、近世大名の居城としては非常に狭いですが、これは旧海津城の縄張りをそのまま用いたためと考えられています。 枡形虎口(ますがたこぐち)   主要な門の多くは枡形虎口を採用しており、敵の侵入を複数回の門と高低差で阻む堅固な構造となっています。 太鼓門(たいこもん)  本丸の正面に位置し、松代城で最も大きな門です。前面の高麗門(こうらいもん)と背面の櫓門(やぐらもん)が組み合わされており、その間に内枡形を形成しています。櫓門の高さは約12mに及びます。 北不明門(きたふめいもん)  搦手(裏口)に相当する門で、こちらも枡形を形成しています。 二の丸石場門(いしばもん)   二の丸東側にあったとされる門で、櫓門を付設した枡形虎口が備わり、外側には丸馬出(まるうまだし)も存在していました。 丸馬出と三日月堀  二の丸虎口の丸馬出しや、それに伴う土塁と三日月堀などは、武田氏による築城技...

若獅子神社で九七式中戦車見てきた!

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若獅子神社 静岡県富士宮市上井出2317−1