三河国 武節城を作ってみた 202006
(令和2年7月完成)
武節城は永正年間に菅沼定信が築城したとされます。
その後元亀2年1571年に武田氏の西上作戦により武節・田峯の菅沼氏は武田氏に従いました。
長篠の戦いに敗れた武田勝頼は田峰城を追われ菅沼定忠とともにこの城に落ち延びここで一泊後に信濃に戻ったと言われています。
この武節城は豊田市稲武町の街の南、名倉川を望む標高約550 メートル(比高40 メートル)の城山に位置します。
この城の特徴は主郭の背後の櫓台を兼ねていたと思われる大土塁がありその背後に大堀切りで、城郭が分断されているところです。
この大切堀による城郭の分断は古宮城でも見られる特徴です。武田氏による築城の特徴なのでしょうか。
今回この城の縄張りを検討するにあたり愛知県中世城郭跡調査報告を基礎にしながらも諸国古城図の堀や横堀、土塁などを参考に縄張りを決めましたまた。また信濃をめぐる境目の山城と館での横堀の意見も参考にしました。
縄張りの参考
・愛知県中世城館跡調査報告
・諸国古城之図
・信濃をめぐる境目の山城と館 他